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文章を書く時は、買ってきたりんごと、自分で収穫したりんごとの違いのことを思う。

書きたいと思うことがあると筆を取る。だけど、なぜそれを書くのかという疑問が湧いてしまうと、途端に書けなくなる。咀嚼した食べ物を、なぜもう一度外に出さなきゃいけないのかというような疑問である。

すらりと書ける時はその疑問に足を引っ張られることがない。身体の中から、確かな意味を持って文章が出てくる。

この違いがなぜ生まれるのか、ずっとわからずにいたけれど、最近少しわかるようになってきた。

買ってきたりんごと、自分で収穫したりんごの違い。例えばそれを受け取る身になった時に、どちらによりありがたみを感じるかを想像していただきたい。

なぜだかわからないけれど、「近くのスーパーで買ってきた」と言って渡されるりんごより、「うちの畑で収穫したりんごだよ」と言って渡されるりんごの方がよりありがたいような気がしてしまう。いただいたことに変わりはないのに、である。

この違いは、そもそも受け取っているものの違いにあると思う。前者はりんごである。後者は、りんごを受け取りながら、収穫したというお話も受け取っている。りんごに、そのお話分の旨味がまとっている。

もし自分がりんごを渡す側の立場なら、そして、文章を書く立場なら、出来るだけ、買ってきたりんごをそのまま渡すような渡し方をしないことだ。

文章を書きたいと思った時には、必ずその動機があり、その前には、動機の素となるものが身体の中に入って来ているはずだ。その素となるものを、そのまま外に出してしまっては、「買ってきたりんご」である。僕の場合は、「咀嚼した食べ物を、なぜ……」という疑問になって筆が止まる、という訳だ。

……ずっと思いあぐねていたしこりが取れた気分です。僕は、自分の身体の中にあるものを言葉にすることが好きです。これからも「旨味のある文章」が書けるように精進します。

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