お金=お礼ではない

思うこと、感じること

僕は週一くらいでプログラマーの仕事をしています。プログラマーといってもそこまで難しいことをやっているわけではありませんが、やっていることは(まあまあ)プログラマーです。

この間、ある会社のオフィスに入って仕事をしていた時の話です。お昼休み。そんなことも気づかず黙々と仕事をしていたら、そこの社員の方が「まだやるの?」と僕に声をかけてくれました。「はい、やります」と答えると「俺の昼ご飯食べて良いよ」とその社員の方が言いました。

どうやらその会社の社長のおごりで、社員に鰻弁当が配られていたそうな。「俺は食べないからさ」とその社員さんはご自身の分を僕に譲ってくれました。「それでは、いただきます!」と厚く感謝を言って鰻弁当を頂きました。

思いがけないご馳走に、「これはちゃんと覚えていなければなあ」と、鰻と感謝の気持ちを噛み締めながらいると、ふと「そういえばあの社員さんの名前を知らないなあ」ということに気づきました。直接聞いたのでは失礼になると思い、僕の隣に座っている事務のMさんに聞くことにしました。幸い、名前のわからない社員さんは別の島のデスクにいたので、こっそりと隣のMさんに「……あの方の名前はなんというのですか」と聞くと、「Kさんよ」と答え、すぐ続けて「いいのよ、社長のおごりなんだから」と言いました。

この付け加えはつまり、「そんなにKさんに気を遣わなくて良いのよ」という、僕への気遣いの言葉です。ほとんど初対面の僕に鰻弁当を譲ってくれるKさんも、もらったことに気を遣い過ぎないように言葉をかけてくれたMさんも、なんと良い人たちだろうと僕は思いました。

しかし、僕は捻くれ者です。ふと、「じゃあ、誰に感謝するのが適切なのだろう」という疑問が、あくまで素朴な形ですが、沸いて来てしまいました。お金を出した社長。厚意を示したKさん。もちろん、両方に感謝すれば良いという答えがすぐ出てくるのですが、僕がこの文章で伝えたいことは別にあります。

少し話が逸れますが、僕はフリーで仕事をしていて、お金の話も人とたくさんします。なので、お金への深い理解のためにも、普段からお金とは何かをよく考えます。今まで考えて来たことの中のひとつに、はっきりと答えを出さないまま来てしまったことがあります。それは「お金=お礼なのか」ということです。

例えば、汗水流して長いこと仕事をしたのに、依頼人が、にっこり笑って「どうもありがとう。それでは」と、礼を言ったきり立ち去られたのでは、たまったものではありません。まっとうな仕事をした以上、それなりに報酬が欲しいと思うのがビジネスマンの基本的な姿勢でしょう。わかりやすいために、敢えて人情も何もない言い方をしてしまえば、「お礼はお金にしてね」ということです。

さて、そこから話を進めてまた一つ疑問。お金をもらえればお礼の言葉や気持ちなどいらないのでしょうか。お礼はお金に変わったのですから、そこに更にお礼を重ねたのでは、払う側からすれば「お礼の過払い」ということになってしまいます。つまり、ここまでの話でいけば「お金=お礼」です。過不足のないきっちりとしたイコールです。とても理屈っぽく、バカバカしいように思えますが、こうして理論を積み重ねていくととても大切なことに気づけます。

さて、主旨に入ります。僕はこの理論の中でひとつ間違いを犯しています。それは「価値の交換と気持ちの交換をごっちゃにしている」ということです。価値と気持ちは本来別々です。ごっちゃにしてはいけません。しかし、そこに気づいてみると、そういうことは世の中にたくさんあるように思えます。「礼は言うけどお金は渡さない」、「お金は払うけど礼は言わない」。身に覚えはありませんか。

冒頭の鰻弁当の話を思い出してください。僕がこの文章で伝えたいことが見えてきたでしょうか。鰻弁当という価値あるものを実質的にくれた人間(社長)と、それを気持ち的に与えてくれた人間(Kさん)とに、価値と気持ちの筋が別れています。

こういうケースに出くわすことは稀だと思います。少なくとも今回のように頭に引っかかるような形で出会うことは少ないはずです。おかげで「価値と気持ちは可分なものなんだ」と気づくことができました。あくまで、気持ちのやりとりは気持ち同士で、価値のやりとりは価値同士で。この二つの筋は、一絡ひとからげになっていたとしても両方大切にしなければいけません。気持ちも価値も、両方大切に扱える人になりたいですね。

 

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